祭神

源九郎稲荷大明神

宇迦之御魂神(保食神)

 

 

神徳

家内安全

商売繁盛

開運招福

 

由緒略記

 童謡に『大和の大和の源九郎さん遊びましょう』というのは当社のことで、その名は広く世に伝わり神徳広大であります。いまその御徳を古書から抜粋いたしますと、
 一、当社の祭神は宇迦之御魂神(保食社ともいう)で、伊勢外宮・伏見稲荷大社の御主神と御同体であり、万民の生活上一日も欠く事のできない五穀豊饒・商売繁昌・家内安全・厄除開運・交通安全の守護神で、あまねく世人の崇敬する所であります。
 一、天智天皇の白鳳年間、平群の真鳥が叛逆を企て、帝位を奪おうとした時、大伴金道麿が逆賊誅伐の勅命を承わり天地神明を念じ、特に寛平稲荷(当社祭神のはじめの御名)を祈って出陣した。明神はたちまち武人と化し、数多の白狐を遣い、この大敵真鳥をち平らげたので天下は平静となった。(大伴真鳥実記14冊の中巻八)


源九郎稲荷の名の由来
 千本桜の狐忠信というのは、この源九郎稲荷の化身である九郎判官義経は日頃深くこの明神を信仰し、神護により、しばしば奇異の戦功を著されたことは、人のよく知る所である。その奥羽に下られた時、訣別の徴として源九郎の名を贈られたというのが源九郎稲荷と称する所以である。(真鳥実記巻八、二十三丁)
 

 ○ 緋おどしをかたみにのこす源九郎(古句)
 

 一、天正年間、大和大納言豊臣秀長卿(秀吉の異母弟百二十万石)もまた深くこの神を崇敬し、郡山城築城の際、その守護神として、遠く吉野川のほとりよりこの地に移し給いて奉斉せられました。その後の城主・町民にも信仰厚く、盛大な祭典を執行し、献納の品々が多かった。(洞泉寺記録)


 一、元和元乙卯年四月二十七日夜、豊臣の家臣大野治房が数万の軍勢を率いて大和に入り、郡山城を攻撃した。時の城主、筒井定慶は籠城叶わず終に落城し、この時、巽の方に払炎龍が水を吐いたので兵火を免がれた。これは全く源九郎稲荷の加護によるものである。(洞泉寺縁起)


 一、幕末の郡山藩主、柳沢保申公にも常々御参詣せられ「保食社」の額を奉納して、御神徳に感応せられました。
 その尊崇の深く神徳景仰の大いなることが偲ばれ、日本三社稲荷の名称が冠せられている。